絵本の『こんとあき』をこの歳になって初めて読んで、鳥取砂丘を遠く思った。やわらかな絵に描かれた広漠とした明るさは、子どもよりも、自分の身のうちの切実さにふれたようだった。
日々自分たちを気遣ってくれる先生が、それを聞いてまた連れて行ってくれた。山陰は自分にとってはいつも明るい。今日も、なだらかな中国山地をぬけた山陰は、青々と風が広がって、日本海を向く豊かさがあった。
砂丘の前に、因幡一宮の宇倍神社に行きたいと願った。昨夏から、伊福部昭の音楽と文に出会って、それから途絶えることなく聴いていたのだった。道東で生まれた人は、どこに墓所をさだめたのか問ううちに、鳥取の地にある不思議にゆきあたった。伊福部氏の祖が古代から明治まで神官をつとめていた宇倍神社のすぐそばと言う。墓所は内地なのか、祖父の代で北海道に渡った人にとって、それは帰還なのか、考えてみたかった。
伊福部昭は佐藤忠良や本郷新と同じころ、同じ中学にいて、自分はかの人が才を広げた学校の間近で育ったのに、出会うまでに随分時間が必要だった。音楽について受け止める力に自信がなかったのが大きい。それが昨夏、本郷新を久々に宮の森の地で見て、その高まりのまま聞いた伊福部昭の音楽は、音楽という隔てを感じさせずに北方性の芸術の意味を私の前にひらいた。
シンフォニア・タプカーラやリトミカ・オスティナータ、土俗的三連歌、すべてが良くて、すべてが強い説得力をもって響いた。強靭な独創なのだけど、それは同時にたしかな我々北方人の精神の律動なのだった。北方の芸術の持つ可能性のすべてにまったくためらわず踏み込んで、次々と自身が生きるがままに鳴り響かせていった、そういう圧巻さは、羨望しかなかった。ああこういう文学を書きたかった、こういう芸術思想の体系を持ちたかった、雪の光に目を細めるような思いだった。
北海道文学の理想を音楽に見る、というのは意外なことなのかもしれないが、道東の林の中でただ一人作曲をつづけ、少しも濁らせずに音楽を学んで構築した理論は雄大で美しく、アイヌの精神の意味も、北方の意味も、そして北に渡った日本人の意味も、すべてが連なり合ってどこまでも広がってゆく。文学はむしろ、誠実であろうとしてとらわれすぎてしまったのだろうか、そんな感さえおぼえる。
宇倍神社は、海とも山ともわかたぬ初夏の風がごうと吹きすぎて、青もみじが次々に光った。清涼な大気の中で社殿の白木が美しかった。参拝後、社務所の人が、小道をいけば、伊福部家の墓所があると親切に教えてくれた。落ち葉がなだらかにつもった小高いところに、林に囲まれて墓石はあった。自然の中で堂々とした感覚があった。ここはここで彼の人との調和があるのだった。
伊福部昭は因幡万葉の歌も作っていて、それは彼の祖に行き着くひとつの音楽の道であった。ともすれば日本の、内地の中心ともなった万葉の歌と、天離る北海道の律動と、歴史を経て隔てを深めたその精神も、古代においてはつながりゆく。帰還であって帰還でなく。
海風が吹き上げる砂丘を歩むと、埋もれて埋もれて、ただ広く、馬の背を超えても、また濃く青い海が広がる。絵本の『こんとあき』は、どうにも物哀しい押されるような寂しさがあって、手を差し伸べる人はたくさんいるのに、一人で歩まねばならないことを悟るような、そうした情景があらわれる。
砂丘がとぎれ、人もいなくなるあたりに、有島武郎の歌碑があった。灌木の中で鋭く空を刺し、の歌が刻まれている。情死まぎわの歌なのに、つらぬかれる寂しさがある。あたりに何か見覚えのある紅さは、ハマナスの花だった。こちらに来て初めて見た。そして青い海風にまじって、澄んだ甘い花の香りが高木から届く。知っている、揺れる房のような白い花、アカシアの樹らしかった。有島はここで北方を思い返しただろう、因幡と北方は、海一つ、なのかも知れない。
(2024.5)