緒言

 五年ほど、まとまった何かを書いていなかった。書けなかった。言葉が自分から去っていったと言うより、自分自身の、文学というものへの疑義だった。生の経験が否応なく向き合わせた。文学というものの大半が、うそ寒いものに思えた。立派な顔をしていても、よくできた小箱の細工のように思えた。小ぎれいだ、だけど結局嘘だ。何重にも守られた中でしか動かない精巧なからくり。年齢を重ねると人は文学を読まなくなる、必要がなくなる、その事実が自分に迫るのをおぼえた。そんなことはない、文学が生の経験と本当に等しくなるのだ、そうした文学者がいるのだ、そういうことを追い求めてきた自分の歩みをまるで否定していくような日々の実感だった。言葉を信じていないわけではなかった。だが切迫した生の瞬間瞬間に吐かれる言葉が、じかに自分を守り他の人を変え動かしていくのを見る中で、文学にまつわる美しい逃げを感じる時が多かった。文学だけではない、言説に働きかけいつか社会を変えるのだ、という論法に深い嫌悪を感じるようになった。知的なものは上手に逃げを作る。直接的な戦いを避けて、知の名の下に防壁を作り、ひとりの人間の弱さを執拗に隠そうとする。若い日に未知の世界として憧れた観念の世界のほとんどが、いまは特に身に迫る意味を感じられない。西田幾多郎が家族の病の中で、哲学とは悲しみである、と言ったことが、本当に意味のある知だと静かに思える。

 いま、自分は文学を信じているか。信じているところもある。信じたい気持ちもある。文学がわずかであっても、本当に生になる時はやはりある。ただかつても今も、それはごく少ない。その成就を阻むようなものだけがひたすらあふれている。文学の語のまわりは阻むものばかりの騒擾で、ほんとうの文学に近い言葉は、保育園の園庭あたりで誰に書きとめられることなく消えていく。

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 自分は大学から関西に出て、瀬戸内の学校に就職した。自分は文学の知を関西で習い、それからずっと「内地」で文学を仕事にする運命になった。でも自分に文学が始まったのは内地ではなかった。生まれ育った北海道だった。思い返せば、くりかえし文学を書いても語っても、本当に描かれねばならないのは、ずっと北海道であった。文学がさかんに語られ古書市が賑わう京都の夏の夜に、乾くように北海道を求め続けた。内地では自分は文学が書けない、無意識の声があるようだった。でも自分が学んだ知は、お前を惹きつけた文学とは結局は、内地のものだろうと諭しつづけた。二十年、苦しかった。

 四十五歳になるこの年の夏、帰りたいのか自分でもわからなくなった北海道に短い帰省をして、急に想いがはじけた。そこには疑う必要もなく文学があった。書かれるべきことが原生の花のようにひろがっていた。有島武郎の旧宅がひっそり息づく森には、文学に嘘も逃げも何もなかった。ようやく文学への帰還が始まるのだ、と自分の運命を理解したように思った。

 私の文学は、北を向いている。北には文学がある。人生は折り返しを迎えているが、あとのすべては北の文学に向かっていくだろう。そうした北への想いを瀬戸内で、内地でどう果たしていくのか、自分はこれからその問いをかさねていくことになる。

 北海道を求める。自分の郷里だから固執するのではない。そのようなことは最初から思い浮かんで二十年考え続けてきたのだ。そうではなくて、文学よ北へ、と恐れず言いたくなるような力がたしかにある。

 現在の文学には大きな逼塞がある。必死で糊塗していても、感じていない者はいないだろう。新しいものが出た、凄いものが出たという声高な喧伝だけがくり返され上滑りしていく。文学の書き手には誰においても内奥に大きな不安があり、この先文学は何を目指していくべきかなど到底恐ろしくて言えず、極力触れぬようにしている。書きたいという思いだけはあるのに、向かう先がない。私は明治以降の文学を自分なりに勉強してきたが、書き手にとっては今はひどく不幸な時代だと思う。だがそれは書き手が自分で負うべき責でもある。そうした時、北を向くことを思う。

 中野重治は、北海道の文学は人生に正面から相渉ろうとしていると言った。北海道の人間と文学には、自然と最初の交渉にはいった人間の姿が保有されていると。私も深く同意する。人間にとって最初の文学。有島も、自然の前に個としての人間が際立ってくると言う。個という存在を疑ってかかる暇もないほど、孤独に生命をゆさぶられる土地。それは内地がつみかさねた知の世界よりもはるかに大きい。内地の文学の尺度に合わせてやる必要はないのである。

 あまざかる、内地の文学の古語を引きながら思う。内地の人間の百年以上前の流浪の行き着いた先に生まれた自分でもある。遠ざかる都、中央。日本の辺土で生まれた文学、とあえて言うのが自分の反骨的矜持でもあった。でも今は、そこにもう一つのあまざかる力を見ている。北海道の人間は何を見ているか。どちらを向いているのか。都ではない。暖かな南の人間の世界ではない。北海道の人間はさらに北を見ている。人間がついに生きてゆけない極北を見ている。存在は純粋な自然の世界へ向いている。北海道の人間も文学も知っている。私どもは自然からあまざかる存在なのだと。自然への郷愁と強い憧憬と、人間と自然のぎりぎりの境目に立って、言葉というものを懸命に斧のようにふるうのだ。内地の歴史が忘れていく人間の意味を、文学の本当の意味を、北海道はよく知っている。

 内地からの植民が果たされて、近代都市が発達し百年、深刻な自然との交渉など今はありはしない、そう言う人もあろうか。遠慮なく北の地に立って見るがいい、人間が併呑できたものなど何ひとつなく、きりひらいた土地は三世代で潰え始め、森も原野も次々その地を取り返し、熊が存在を広げ、人間の街を黒々取り囲んではなだれこむ。そういう人間存在の不幸とも浄福とも言えるようなあの北の世界を、私は求める。

 かつての近代文学の黄金時代には、内地にありながら、こうした北方性の精神に呼応するものが多々あったのだと思う。近代文学の大切な作家たちは、実によく北海道の精神を語っている。北海道から隔たっていた者、北海道を知らぬ者が、北海道の文学と同じものを実現する、それは無論ありうるのだ。私は関西にいた頃、散々同時代の「文学理論」を勉強したが、自分の文学的感覚を言い当てる抽象理論は見つからず、ひどく侘びしかった。しかしゲーテの『色彩論』を読んで、初めて深く共感し、自分の奥底の衝迫を肯定したのだった。自然にまっすぐひらかれたゲーテの姿はそのまま北海道の文学につながる。人文学と自然科学の融合などいちいち言うべきことでもなく、同じ一つの道であり、農学校から文学が生まれてくることは至極あたりまえのことなのだ。

 現代の内地にも、北方性の精神に呼応するものは、必ず眠っているし、奥底で求められているのだと思う。その衝迫の言い方を知らないだけなのだ。怖がって息苦しい小箱にひしめきあうこともない。我々は外に出ることができる。

 私はしばらく、北を向きながら、瀬戸内で文学を続けることになるだろう。自分にとっては、瀬戸内も大切な土地である。瀬戸内に移り住んで、関西にはなかった、文学の解放をたしかにおぼえた。言説の騒擾が少し遠くなり、人生に相渉る言葉にたしかに出会えるようになった。教員としての生活が、自分の精神を守ってきたのは本当だ。だからこの地もまた、内地というものを無抵抗に受け入れ、内地的な言説に呑まれていってほしくない。あまざかるところに本当の文学がある、それをこの地でも信じていきたいのである。

 

(2023年11月)