有島の旅

 自分は、自分の感じ方にそむく文学というものを、認めてこなかった。他人が良いといくら言ってもうなずけなかった。これを受け入れなければ、現代、「文学の世界」では決して生きていけないよ、と助言されてもやはり受け入れられなかった。若い日にはもちろん、自分の文学観が幼いのかとも考えて、そういう「文学の理論」について勉強したりした。だが学んだ末に、自分の感じ方はくつがえらないとわかると、そのまま行く道を選んだ。

 そういう選択をしていると、ひとりになってしまうよ、まずは大勢の文学観にしたがって、そこで認められてから、自分の言いたいことを言ったらいい、書く場もなければ大事なことも伝わるまいよ、と多くの人が言ってくれた。それができなかったわけだが、器用さがない、とか自己の主張と時代の趨勢を折り合わせる才覚がなかった、というより、自分の深奥にあるかたくなさが、心にもないことを言うのをひたすら許さないのだった。それが正しいかどうかは私如きにはわからない、けれど自分が信じていないものを信じていると言うことだけはどうしてもできない。自分の内部で懸命に説得をしようとしても、偽りはすぐ看破される。社会的利害が少しでもからめば、ますます虚偽になりかねない部分がゆるせなかった。結局自分にとっては、内なる自分に従う方がよほど自然なのだった。
 こういうかたくなさは、自分の人生の中でさほど身近な人に影響を求められるものではない。一体何から生まれたものなのか、自分でもわからずずっと不思議だった。

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 今夏北海道に帰り、三十年ぶりくらいになるだろうか、蕗が葉を広げる野幌の「開拓の歴史村」に行き、有島武郎の旧宅と、北大の恵迪寮を見た。
 八月の薄寒さをおびた北の青い葉の中で、黒い下見板張りの建物はどこか雪の香気をのこしている。有島宅には、窓辺に子どもの木馬があって、セザンヌとゲーテの額が掛けられていた。静かに入室していくと、木田金次郎のことが思われた。学生の姿のない恵迪寮はがらんと大きく、どこからも森の青さが見えた。

 有島のことを見る旅と決めていたわけではなかった。それがひどく有島のことが心に来た。翌日、札幌の街なかの時計台をおとずれて、白い講堂を出ると、十一時の鐘が鳴り渡った。子ども時代から何度も聞いていた音響は、一度蘇ると、くりかえし耳に鳴らすことができた。帰って「星座」を読んだ。

 有島はかたくなな人だった。どうしようもないほど自分に嘘がつけなかった。札幌農学校にかかわる人間は、皆かたくなだった。主義思想は違っても、自分を偽れないところはどうしようもなく同じだった。私は四十半ばになって、初めて自分の気質の根に思い至るところがあった。北海道にいた頃、彼らの文学をさかんに読んだというのではなかった。文学を学び始めてからも、意識的に読んできたわけではない。それが、いま自分と重なり合うのを悟っている。そうして自分のかたくなさなど、有島らに比べればいまだ粉雪のようだと思える。

 有島が死んで百年の年だった。百年。北海道にかかわる人間が共有する文学、思想、そういうものがたしかにあって、百年経っても人間の内奥にかわらず響いている。
 思想と言っても不思議な思想で、北海道の思想は、かかわる人間が深く共有しながら、ひとりであれ、と言う。有島はこう言っている。

何処となく荒涼とした粗野な自由な感じ、それは生面の人を威脅するものではあるかも知れないけれども、住み慣れたものには捨て難い蠱惑だ。あすこに住まっていると自分というものがはっきりして来るかに思われる。艱難に対しての或る勇気が生れ出て来る。銘々が銘々の仕事を独力でやって行くのに或る促進を受ける。これは確かに北海道の住民の特異な気質となって現われているようだ。  (有島武郎「北海道に就いての印象」)

 北海道ほど人間が人間として生きていくために、連帯が必要な土地はない。にもかかわらず、北海道の地で人はひとりになる。ひとりで人生に相渉ろうとしていく。そして北海道の地をはなれても、ひとりになれと内なる声を響かせる。

(2023.12)